GLASHÜTTE ORIGINAL
グラスヒュッテ・オリジナル
グラスヒュッテ・オリジナルの起こり
ドイツの時計メーカーは大きく二つの地域に分かれて存在してきた。
スイスに近いシュヴァルツヴァルト地方と、もうひとつはチェコに近いグラスヒュッテだ。
歴史の古さを言えば、前者である。ライン川の上流にあるこの地域は、黒い森とも呼ばれ、この地域に自生する木を使って昔から木製のクロックを製造し栄えてきた。1852年にはおそらく世界で初の時計博物館が設立されていることからも、その歴史の古さはうかがい知ることができる。
対してグラスヒュッテで時計産業が興ったのは、シュヴァルツヴァルトより遅い19世紀半ばのことだ。
それまで、銀鉱山の採掘で潤っていたグラスヒュッテだったが、この頃には銀が枯渇し、住民たちは貧困に苦しんでいたという。
この危機を救おうと行動を起こしたのが、ドレスデンの時計職人であったフェルディナント・アドルフ・ランゲ(1815~75年)その人である。彼はグラスヒュッテの街に新たな雇用を生み出すために、時計会社設立の要望書を当時のザクセン政府に何度も送っている。1845年、この要望が受け入れられ、グラスヒュッテの街は時計産業の地として再スタートしたのである。
もっとも、このときランゲに勝算がなかったわけではない。鉱山で潤ったグラスヒュッテには小規模ながらも手工業の歴史があり、かなり精密な道具を自製していた。つまり、精密な時計作りを実現できるだけの素地があったためである。
こうして、何もなかったグラスヒュッテの街に、多くの時計関連会社が生まれていった。さらに、1878年にはランゲの弟子であったモリッツ・グロスマンが陣頭指揮をとってグラスヒュッテ・ドイツ時計学校も設立され、時計産業はいっそう根付いていった。
だが、順調だったグラスヒュッテの時計産業に転機が訪れる。
第2次世界大戦の敗戦によって、グラスヒュッテの主だった時計メーカーは段階的に国営企業の“グラスヒュッテ時計企業”(通称GUB)に統合化されてしまうのである。
実はこのGUBこそ、現グラスヒュッテ・オリジナルの前身となる会社である。1990年のドイツ統一の余波を受けて94年に民営化したGUBは、さらに2000年には現在のスウォッチ・グループに参加。民営化以降、高級化を推進したグラスヒュッテ・オリジナルは、いまではドイツを代表する高級時計メーカーにまで成長した。
グラスヒュッテ・オリジナルが今日までのわずかな期間で、これほどまでに成功に収めた理由はいくつかある。
そのひとつが、旧GUB時代より工業化を進めると同時に、手工業のノウハウをもしっかりと継承してきたことだ。なかでも特筆はムーヴメント部品の焼き入れだろう。多くの機械式ムーヴメントは硬度と耐久性を高めるため歯車などに焼き入れをするが、これは品質管理が非常に難しい。そのため外注するのが一般的だが、同社ではこれを自社で行なっている。その技術力と設備規模は世界でもトップクラスである。
加えて近年、グラスヒュッテ・オリジナルは自製率を高めようとしており、ムーヴメントのみならず、優れたケースメーカーと文字盤メーカーを傘下に収め、内外装のほとんどをドイツ国内でまかなえるようになった。グラスヒュッテ・オリジナルの時計で使用するパーツは、実に95%以上が自社で製造している。また高い自製率を実現したことで、より個性も際立った。とりわけ、グリーングラデーションカラーとなった新作シックスティーズのような、繊細な仕上がりとなった文字盤は、グラスヒュッテ・オリジナルならではと言える、新たな個性だ。
新たな個性を得て、ますます魅力を増すグラスヒュッテ・オリジナルで現在展開される主要コレクションは“パノ”、“セネタ”、“ヴィンテージ”、“レディ”の4つ。最後にこれらコレクションの特徴と代表作を紹介しよう。(文◎堀内大輔)